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今月の法話≪東京教区所属の僧侶による法話を連載いたします≫

今月の法話(2月)

2012 年 1 月 31 日

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   「心」

  本多英之 (浅草組誓教寺)


 よく通夜とか葬儀の折に、喪主の方から「お寺の事はすべて年寄りにまかせきりでした。これからは私がやらなくてはならないのですが、私はどうも不信心で……。」と言って、苦笑いをする人を多く見かけます。その様なとき私はよく「この世で不信心な人は居ませんよ」と話し掛けます。他人から優しい言葉を掛けられたり、親切にされたらどのような気持ちになりますか。きっと嬉しくなりますよね。心癒され感謝する気持ちになります。これも一つの信仰心なのです。

多くの人達が、自分の持つすばらしい信仰心に気付かないだけなのです。家族や自分の周りの人達は勿論、ペットや植物に対しても心癒される事が多くあります。信仰心は理屈で考えるのではなく、心で感じとることだと私は思います。
なかには無神論者である事を自慢げに言われる人を見かけますが、思わず首を捻りたくなります。多くの人達の優しさや思いやり、そして家族の慈しみなどをどのようにして理屈で否定する事ができるのか。理解に苦しみます。

確かに寺との付き合いの中には、日常生活とは異なり儀式的なものも多くあります。ただそれが面倒だからと言って不信心とか無宗教という言葉で逃げないで欲しいのです。
昨年の3月以来、私たちの国は東日本や長野県北部地方での大震災、福島県での原発事故、さらに近畿地方での台風による水害と数多くの災害に見舞われました。そのため被災地の方々が大変なご苦労をされております。それに対して日本はもとより、世界各国の人達から形こそそれぞれ異なりますが貴重な「心」を頂きました。ご苦労なさっている人達を助けたいという心。そしてそれらの心で癒された人達の感謝の心。私はこの「心」を宗教の違いはあってもすばらしい信仰心だと思います。

心の字を使用した漢字は数多くありますが、その中で亡くなるの「亡」の横に心の意味を持つ立心偏を付けると忙しいの「忙」になります。横の心を下に付けますと、忘れるの「忘」となり共に心が亡くなるという事です。これからは忙しさにかまけて、折角自分が持っているすばらしい信仰心を忘れないで居たいものです。  合掌

今月の法話(1月)

2012 年 1 月 7 日

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  「母ありて・・・」

  武智公英
  (豊島組定泉寺)



 東京教区教化団副団長の藤井君からの携帯が鳴った。取ると法話原稿の依頼である。『新年1月の担当が豊島組さんなんですよ~、法話よろしく頼みますよ~』『え~誰がいいんだろう~』と私。すると『もう時間もないし、武智さん頼みますよ~』と副団長。『法話なんて書けないよ~』と私。『いやいや武智節でいいですよ~』と副団長。ならば法話ならぬ『放話』でお許しいただきたい。

 その電話から、一週間以上過ぎた今日は12月10日、土曜日未明午前3時である。私は寺の2階寝室で、病身の母の介護ベッドの下で寝ている。膵臓癌末期の母に付き添っているのだ。母の深い呼吸を聴きながら書いている。何度も酸素吸入器のマスクを手で払うので直さなければならない。やがて『このマスクを払う力もなくなるよ』と親身に往診してくれる友人の石田先生に言われた。彼は中一の時に、当時35歳の母親を看取った。それから医者を志したのだ。子供の頃、うちに遊びに来ると、お袋が料理し一緒に食べた。母への往診は我々のプチ同窓会なのだ。Dr石田の母は女子医大のICUに入院していた。危篤の母親に触れる事が出来たのは、最後の1日だけだったらしい。その様な体験から今回の在宅医療に力を入れてくれる。

 あれ、母の呼吸が聞こえない。慌てて顔を見る…大丈夫だった。…もしかすると、今夜旅立ってしまうかもしれないのだ…。

 あまりに私は親不孝だった。結婚したのも昨年の4月、歳も50を有に回っていた。区役所の夜間窓口に二人で婚姻届を貰いに行ったら親娘に間違われたのだ。『お嬢さんおめでとうございます』と。無理もない、区役所の窓口は、改葬届しか縁がなかったのだから。ホント母には待たせ過ぎた。
 住職になって30年となるが、葬儀に車で急ぎ、首都高速錦糸町のオービスに60キロオバーで撮られてしまった。ゴールド免許だつた私は、一転免停住職となった。所轄の第7交通機動隊から呼び出しが来た。証拠写真から、お坊さんとわかり、至極丁寧な警察の応対であった。
 取り調べの最後に、『ご職業は?』と尋ねられた。法衣姿の証拠写真を指差し、『これで会社員とは言えないでしょう、僧侶です』と私。すると取調官は『こうですか・・・僧呂!』。私は『人偏が抜けてますよ、ソーローじゃないですから…』。警察の部屋は大爆笑となり、帰る時は、よっぽど楽しかったのか、警察官が二人も玄関まで見送ってくださった。『運転は歩行者警察、確認し』

 母は昭和5年1月2日に祖父の駐在先の中国上海の西で生まれた。だから名前を『要』と言う。母はΓ男の子の名前だから嫌だった」と言う。固いし・・・。しかし、そのお陰で先代父亡き後36年間、正に寺の要として定泉寺を守ってこれたのだ。
 私が4歳の時、五重相伝会を奈良の野島先生から受け『最譽』を頂いている。念仏信仰のスタートである。母、9歳の時より裏千家の茶道を学び、教授としてその教えを広めていた。すばらしい先生が身近に居ながら、私は全くのΓ何にも千家」の家元であった。つまり、お手前頂戴しか母の前ではして来なかった。遅かった・・・。
『親孝行、したい時には、親はなし』

 77歳の時、持病の高血圧から脳内出血で倒れ、車椅子の生活となった。お茶のお手前も出来なくなり、『早くお父さんのところへ行きたい』と言う事もあったが、よく食べた。
『夫待つ、浄土を願い、飯を食う』
これを詠んだら、『失礼ね!』とよく笑ってくれた。

 右半身麻痺となり、赤ちゃんも抱けなくなったけど、それでも私どもの子どもを抱きたいと言ってくれた。先週の土曜日、産科医の従兄弟のおかげで来年4月8日の花まつりに、女の子が生まれることがわかった。名前も決めて母に知らせた。
『真央』、旬な名前である。彼女のお母様も48歳の若さで旅立たれたことを報道で知った。
 私は母の両手のひらの手形を採った。この両手の色紙の上に真央を抱かせるつもりである。

 時計は午前5時を回った。母の呼吸が荒い。
 来週12月16日は父の命日である。10日前に母を施主にとして枕元で37回忌を勤めた。総代さんも駆けつけてくれた。

 まだ話せる時、母はこう言っていた
 『お浄土に行ったら手を振るから…』と、
 そして父の声が聞こえた。
 『かなめ、もう頑張らなくてええよ…』と。                                
                                合掌
                   
                          
(この寄稿1時間後の12月10日午後11時50分母はお浄土へ旅立ちました。享年81歳)

今月の法話(12月)

2011 年 11 月 30 日

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     「気付かせていただく」
     野村恒道(芝組常照院)


 早いもので浄土宗の月訓カレンダーも最後の一枚を残すのみになってしまいました。今年も流行語大賞や、今年の漢字が選ばれています。候補の中からあれがいい、いやこっちがぴったりだ。人さまざまな意見が聞かれます。そうした時に皆この一年を振り返って、誰しもああもう今年も終わりかと、それぞれの感慨にひたっていることでしょう。

今年、我々は法然上人の800回忌をご回向させて頂いたわけですが、799年前に遡ると、その一周忌を目前とした建暦2年(1212)の今頃、お弟子の源智上人は法然上人を失ったその1年をどのように受け止めていらしたのでしょうか。師の恩徳に報いる為に大勢の勧進を募り、三尺の阿弥陀如来像を造立して、暮れの12月24日には、その胎内に4万6千人以上もの結縁した人々の名前を書き連ねた結縁交名状を封入しました。そして皆が法然上人の教えによって阿弥陀様に救われ、極楽に往生できるよう願文を認めました。そうした善行が、先だった師の御心に沿うものであると確信したからです。長年に亘り、常に師法然上人のお傍に仕えた源智上人ならでの報恩行と申せましょう。

しかし、親であれ師匠であれ、既に往生された人々の思いを受け止めるのは容易なことではありません。先だった御魂の思いは、月の光の如く常に我々の方に照射をされている筈ですが、それに気付かずに過ごしている日常です。そしてそれに気付く時は、心にある水鏡に月を映すがごとくです。夜空に煌々と照り映える月の姿は、海でも川でも、はたまたその辺の水たまりにまで映ずることがあります。しかしこれを心の水鏡に映すのは至難のことです。我々の水鏡は普段忙しさにかまけ、煩悩にさいなまれて、得てしてその水は濁り、ゴミが浮いている、ぶつぶつと不平を言うがごとくあぶくを吹いている、波風が立ってその水面は一向に落ち着かない。こうした我々の常日頃では、そこに映しだす月の姿は醜く歪んだものにしかなりえません。

仏壇やお墓やお寺にお参りする。ひと時端坐合掌しお念仏に浸る時を持つ。そのような静寂な時を得て、ヘドロやごみを取り除き、油をうったような明鏡止水と言われる水面をわずかな時間でも作り出してみる。初めてそこにはくっきりとした美しい月の姿が映り、いつもは気がつかない窪みや影など、決して一様ではないその細部に改めて気づくはずです。他人の思いも同様です。今まで自分はこうだと思っていたことが少し違う、こういうこともあったのかと驚くこともしばしばです。
いつもはなかなか気付かないままに過ごしてしまう、まさに我々は凡夫であり、真理に暗い無明長夜の暗であることを思い知らされます。

晦日(みそか、つごもり)とはもともと暗い日という意味が有りますが、つごもりはつきごもり(月隠もり)の転じたものです。月のない日は暗い、朔の前の月明かりのない日は晦日です。その一年最後の晦日である大晦日(おおつごもり)も、もうわずかです。夜も夜明け前が一番暗いといいます。しかし本当に暗いときにはもうすでに夜明けは目の前なのです。希望は膨らむばかりです。そして一条の光はたちまちに闇を切り裂きます。

今年は大震災や原発事故、そして経済不況などなど震撼とさせられること、不安が募ることの多い年でした。しかし新しい年も間近です。そして年が明ければすぐに法然上人の801回忌を迎えることになります。源智上人が法然上人の1周忌に多くの人々にお念仏の功徳を振り向けて、法然上人亡き後の新しい時代に対処したように、我々も法然上人のお念仏の恩徳をかみしめつつ、800年大遠忌の後の時代に備えなければなりません。皆様ご健勝で良きお年をお迎え下さい。        合掌

今月の法話(11月)

2011 年 11 月 1 日

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  「平生(ふだん)のお念仏」

  榎本雄心(城北組浄心寺)



 千年に一度の天災といわれるこの度の東日本大震災は、誰も全く予想だにしなかった「まさか」の事態が、想定外の現実に起きてしまったのです。「まさか」とは「晴天の霹靂」、まさしく突然の大惨事に遭遇してしまったのです。
 ボランティアで津波の後始末に参加したのですが、現実に被害を眼前にした途端、いかに大自然の力が物凄いものであるかを、全身で感じたのです。体は硬直し、異様な大気と地の底から上る霊気が全身を通して伝わり、体を震わせながら感じたのです。
 今は瓦礫と化した建築物や一切の生活用品など諸々の物が汚泥や砂に埋もれ、一面に散乱している。津波の凄まじさを思い知らされたのです。津波の直前までは、人も動植物も皆ともに生きて、確かにここに存在し、建造物など形があったはずです。
 深く重く切ない譬えようのない哀しい思いが、体の底から嗚咽となって込み上げてきて声にならず、ただうなるお念仏をやっとの思いで称え、ご冥福を祈るのが精一杯でした。
 諸行無常(常時万物は変化し続ける)は釈尊の教えですが、まさにこの状況は激変する大自然の大変化、「まさか」しかないのです。何故ならこの災害を誰が予想しえたでしょうか。まさに寝耳に水の大災害なのです。
 
 しかし法然上人は、この諸行無常の大激変をすでに私たちにお示しになっています。
 『念仏往生要義抄』(以下、意訳)の中で、ある人が法然上人に尋ねた。「阿弥陀仏のお救いくださる光明は、平生(常の、ふだん)ですか、臨終の時ですか、どうでしょうか。」
 法然上人は、「平生のときから臨終の時に到るまで、阿弥陀仏は照らしてくださいます。何故かといいますと、常日頃から極楽往生を願って偽りのない心(至誠心)、罪深い自身でさえも救うてくださる阿弥陀仏を深く信じる心(深心)、極楽浄土に往生することを心から切望する心をもってお念仏する(回向発願心)。以上のように三心の具わったお念仏だから必ず往生できるのです。そのように『観無量寿経』は説きます。三心具足(三心を具えた)のお念仏の志をもってお念仏する人を、阿弥陀仏は無量の光明を放ち照らして、常日頃から臨終の時にいたるまで決してお見捨てにならないのです。」とお答えになりました。法然上人はすでにこのとき、常に変化し続けることを、そして時には激変する事を示されておられるのです。

 また三心を具えるとは『一枚起請文』に「ただ一向に念仏すべし」であると法然上人はお導きくださるのです。つまり「ただひたすら往生を願ってお念仏する事」と心得ます。
 阿弥陀仏を始め、諸仏・諸菩薩・諸天善神は、常日頃から三心が具わったお念仏をただひたすら称え続ける事によって、いずれは来る臨終の最期まで、しっかりと念仏者をご守護してくださるのです。

 「まさか」という想定外の如何なる大激変にも、ふだんからしっかりと「お念仏」を称える事によって、如何なる事態にも動ぜずに、毅然と行動でき、ふだんと変わらぬ安らかな心「安心」がいただけるとお導きくださるのです。ここに『一枚起請文』に示される「ただ一向に念仏すべし」のお念仏の法然上人の御心が示されているのです。

 哀しい時にも寂しい時にもいかなる時にも、阿弥陀仏をただひたすら頼むお念仏をする。ここに念仏信仰の大安心をいただくのです。
 法然上人のご霊徳に感謝し、八百年大遠忌報恩謝徳のお十念を捧げ、東日本大震災物故者一切の諸精霊位に鎮魂の十念を捧げ、ここに心からご冥福をお祈り致すばかりです。
 十 念

今月の法話(10月)

2011 年 9 月 30 日

miyasaka




  「『関係性』について想う」

  宮坂直樹(城南組 龍源寺)



「あー、早く独立したいなー。」わたくしが講師として通う高校で3年生が先日こぼした言葉です。成人にはまだ至っていないものの、18歳に届く年齢となった生徒たちがこの言葉を発するのを耳にすることは、十数年教壇に立っていると頻繁、とまではいかずとも、間々あります。
 ではあるのですが、今年は「思い立って」130人ほどにアンケートを取ってみることにしました。内容はそのもの「親から独立するとは?」。「学校を卒業したらどうしたいか?」という文脈でのこの質問に対して、9割以上の回答は「親の世話にならずに一人で生活していくこと」「自分の自由にできること」の2つに区分できるものでした。

 なるほど辞書にもそういった解釈が載っていますし、わたしたちも普段こうした意味でこのことばを使っているのも事実だと思います。
子どもが独り立ちすることは親の願いでもあることは事実ですが、生徒たちの言う「独立する」とは「自分の好きなようにやりたい」と同義、つまり「関係性を絶つ」に近い意味だということがアンケートの結果、改めて明らかになったのです。予想はしていましたが…。

 さきほど私は「今年は思い立ってアンケートを取ってみることにした」と書きましたが、なぜこれまでにも聞きなれていた発言に対して、今年はアンケートを取るまでにいたったのか。それは「関係性」という点で、阿弥陀仏と私とは3種の縁で結ばれている、という三縁(親縁・近縁・増上縁の3つの縁)、その中でも親縁のことが頭をよぎったからなのです。

 「衆生ほとけを礼すれば 仏これを見給ふ 衆生仏をとなふれば 仏これをきヽ給ふ 衆生ほとけを念ずれば 仏も衆生を念じ給ふ かるがゆへに 阿弥陀仏の三業と行者の三業と かれこれひとつになりて 仏も衆生もおや子のごとくなるゆへに 親縁となづくと候」『往生浄土用心』(『拾遺和語燈録』巻下所収)

 阿弥陀様は、私たちが阿弥陀様のことを慕い敬う姿を見ていて下さり、その名を呼んだならば聞いて下さり、そして念じたならば阿弥陀様もまた私たちのことを念じて下さる。身と口と心の三業(さんごう)を合わせたならば、その想いは私たち凡夫から阿弥陀様への一方通行のものではなく、私たちと仏様の間に「関係性」が生まれるのです。この関係性は同時に、極楽浄土への「往生人」である先立った私たちの大切な方々と、私たちの間にも生まれる関係性なのです。
 
 さて冒頭の話。
 この親縁のお話から思い浮かんだこと。それは、果たして生徒たちが「親から独立する」ということを「関係性を絶つ」ことと同義であるかのような解釈をし、それを実行していったならばどうなるのだろうか。親縁において「おもいにこたえる」という実践を示されているにも関わらず、親に対してそれが行われないとするならば…。「仏も衆生もおや子のごとくなるゆへに」ということばの中にそんなことを思い浮かべたのでした。

 さて、生徒たちには「独立する」とは「ひとりで勝手にやっていく」ことではなく、「これまで親御さんから面倒を見ていただいていたが、今度は逆に相談をされたり、手助けをしたり、相互依存の関係になっていくことなのではないか?」「その必要条件として“独立”があるのではないか?」という問題提起から様々な議論をしたのですが…その投げかけたことばの意味を本当に身にしみて感じるのは、ひょっとすると彼ら自身が親になってからなのかもしれません。
お念仏の生活の中、自らも周囲の方々との「関係性」について改めて思いをいたす。そのことがまた仏様に手を合わせることにつながっていく。清秋の日々、みなさまにもそんなお時間をお持ちいただけたらと思っております。
南無阿弥陀仏

今月の法話(9月)

2011 年 9 月 1 日

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「縁・感激と感謝」

荒木昌善(江東組 金蔵寺)


私は愛知県濃尾平野の農家に出生。六人兄弟の次男でした。小学校を卒業するとすぐ親に申し入れました。家を出て小僧になりたい、と。両親は困惑し、遠縁にあたる尼僧に相談しました。そこで昭和9年4月20日、今の稲沢市片原一色の善應寺角田俊善師への弟子入りが決まりました。その頃、村の尋常高等小学校に通学していました。小僧に行くことがきまって登校途中、ふり返ったら我家が見えました。とっさに両眼から涙があふれ落ち、手で払っても払っても出てきました。翌日、又次の日も。あんなに家を出たいと思ったのに。この時私は生れ変りました。

江戸時代に「間引き」がありました。次男か三男が、「お宅の子どこへ行きました。」「あの子は遠くへ遊びに行きました。」それで間引いた返事です。又、明治以降も「口減らし」があって、寺の小僧に出されました。私の場合は自らの意志であります。善應寺では、善導大師のご遠忌の時で大勢の参拝でごった返しでした。縁を結ばさせていただき感謝です。一年間はどこにも行かず、寺でお経・掃除・寺務全般を四人の弟子で修行しました。

中学に入り、佛教専門学校(現在の佛教大学)に入学し、昭和17年9月21日卒業。10月1日岐阜の歩兵部隊に入隊。18年12月30日、豊橋予備士官学校卒業。直ちに成増飛行場に転属しました。19年2月、陸軍で海軍の雷撃部隊に行き海軍の雷撃隊の訓練を受けました。鹿児島の鹿屋航空隊です。私は航法偵察を習いました。
同じ頃訓練していた海軍は、7月サイパン島に行き、全滅しました。我が隊は10月30日、台湾沖海戦に出撃しました。無事帰還したのは一機のみ。沢山の戦死者を出しました。私は貧血病にかかり鹿児島陸軍病院に入院し、退院して1ケ月位で体力的に無理で参加しませんでした。部隊は再編成され、次の機会を待ちました。
遂に20年5月20日、沖縄湾岸に集結している軍艦攻撃の命令が下りました。三機で行動するこの計画。私は中隊長機の偵察員として同乗しました。夕刻、宮崎飛行場を離陸し、開聞岳上空を基点として沖縄に伺いました。西から東へ、湾には沢山の軍艦が集結していました。長機は照明を落し、二番機・三番機は魚雷を発射します。私は照明弾を落し、軍艦を確認し、針路二百七十度と告げました。十分飛び針路0度と言いました。飛行機は急降下し、海面すれすれに飛行し戦斗機の攻撃を避けました。戦斗機は帰りました。九州への進路をしらべ、九州への進路を定めました。旭日が見えかくれし、予定通り開聞岳の上空につきました。そして宮崎飛行場に無事帰りました。二番機・三番機はどこでどうなったのか帰りませんでした。

平素、中隊長は、「同乗の七人は俺が入院しても他の飛行機に乗ってはいけない」と言い、「貴様は坊主だ。死ぬときは一緒に死のう」と言っていました。私は坊さんになってよかった。無事に帰り生きる縁をいただきました。
8月15日終戦。これで戦死はなくなりました。将校は隊を出て近くの農家に寄り、タバコを吸い、「このタバコ恩賜タバコです。私、もういりません。」と言って出て数分後にピストルで自殺しました。私は戦時の勇者だ、平時に貢献しようと決意し、新しく生れました。

師僧は私が岐阜にいる時、遷化されました。寺へは帰れません。実家に帰り、2・3日後京都へ行き知恩院にお参りし、報告しました。1ケ月位して、兄弟子の紹介で江東組の金蔵寺に縁をいただきました。江東組では、大先輩のご指導をいただきました。圓通寺の後藤眞雄上人から、「私が若かったら、あなたを立派な布教師に育てられたのに。毎日法然上人の語法語を読み、上人の真意を身につけなさい。」と御指導を受けました。増上寺執事長になられた廣本徹隆上人からは、平素の御指導と増上寺布教師会加入の推薦をいただきました。今九十歳。法然上人八百年の御遠忌の年に生きて、その恩徳の広大なることを実感し、歓喜・報恩の気持で一杯です。

今月の法話(8月)

2011 年 7 月 31 日

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    「東日本大震災から

       4ヶ月を経過して想うこと」


     加藤昌康(玉川組 森巖寺)


 私のお寺でも震災で家族を亡くされたお檀家様の新盆の供養をさせて頂きました。位牌に刻まれた3月11日の文字を見ると、改めて震災直後に救援物資を届けに行った気仙沼の町の様子が思いうかびました。

 千年に一度と言われる大地震、それによる10メートル超の大津波、さらにその直撃を受けた福島第一原発の崩壊による放射能の大放出で、発生から4ヶ月を経過した今も10万を越す人々が避難生活を余儀なくされており、まさに有史以来の大震災と言わざるを得ない状況にあり、次々と予期しない事態が発生しています。

 しかしながら第二次世界大戦直後の状況は、もっと悲惨なものだったのでしょう。広島・長崎には原爆が投下され、多数の死傷者と高濃度の放射能に汚染されていました。その他の多くの都市もB29の無差別爆撃で壊滅状態となりました。多くの兵士は戦死や捕虜となり、国民は食料も衣類も配給制で最低限の生活を余儀なくされて、子どもたちもやせ細っていました。米軍の統治下で、憲法は改正され、永久に戦力をもたない平和日本が再生しました。茫然自失の中で少しずつ美しき日本を取り戻す動きが胎動していたことは否めません。

 やがて朝鮮戦争という特需、続いてベトナム戦争特需で、日本は労せずして世界第二の経済大国へとのし上がる結果となりました。夢のない富は人間を堕落させることは間違いない事実です。敗戦から60年以上たった今、世界は大きく変わりつつあります。しかし今、私達は、日本の周辺で起きている多くの問題に全く無関心だったのではないでしょうか。北方四島・竹島や尖閣諸島問題に本気で取り組んでいるとは全く思えません。国際社会においても、日本の先行きは真っ暗だと言えないでしょうか。このような状態の中で起きた今回の大震災も、別個に考えるべきではないと思います。

 人間はこういう状況になったときどうするのでしょう。あるものは、茫然自失して廃人のようになり、目的が見えないままただ時を過ごす場合もあります。しかしみんながみんなそうなってしまわないのが人間だと私は思います。
「諸行無常」とは、世の中は常に同じという事はない。むしろ流転を繰り返すのが世の常です。いま一歩踏み込めば、現世はあるがままであり、なるようにしかならないのです。これは人間にとって不安そのものです。そこで「南無阿弥陀仏」と一心に唱えることによって、仏さまに縋る事が出来ます。この境地に達したとき、力強い精神力を持ち、敢然と困難に立ち向かうことができます。私は、それがお念仏の力=人間力ではないかと思っています。

 今回の大震災で日本の政治家や経済界のリ-ダ-が自分の事しか考えていないのが、よくわかりました。しかし、民間の人々が被災された方々に物心両面で支えている姿、ボランティアの方々が被災地で危険をかえりみず汗水流して、救援、復興に努力されている姿を目の当たりにすることができました。

 地元の企業者の中にも、少しずつ立ち上がるものが出てきました。地元の産品を東京に運んで被災地の活力をアピールした報道もありました。大きな災害を乗り越えて不屈の力を出し合うことが今一番求められています。大震災による最大の危機は、貧しくなった日本人の心を取り戻すまたとないチャンスなのではないでしょうか。

今月の法話(7月)

2011 年 7 月 1 日

nunomura


  「みんな つながっている」


   布村哲哉(城西組 專念寺)



がらがらがらがらーーーどどどーーー
一体 何があったのだろう これはどこなのであろう いままでの光景は何であったのであろう思い出せない 頭は空白 何が起こったのだろうかと唖然 
「二次災害がありますから 足を踏み入れないでください」との声
あんなにお墓が崩れ落ちているのに手がつけられないなんてー

去る3月11日の当寺災害現状である。
それまでは新宿都心のの高層ビルを眺める絶好の展望台であり 戦後は富士山も遥かに見えた 90年近く前の関東大震災にも耐えてきた石垣だったのである それがまさか 息ができない
大正11年にその崖下を走っている当時の市電の写真も残っている 考えもしなかったことである 地面が崩壊するなどとは夢想だにし得ないことであった どうしてーなぜー 人間が如何に無力であることか いままでの姿は何であったのであろう 現実とは何であったのか 存在していたものが無くなる 見えていたものが無くなる 何もかも何処へいってしまったのであろうか
翌日 区役所の職員が来て全面に保護のためのブルーシートをかぶせる いかにも大被害ですとの表示でもあるだろうし それを見る人にとって誰もが思いいたる今回の大地震災害である
ああ今度の地震がこんな所にも出たのか それだったら東北地方の被害はとても想像出来ないことだ
3カ月たった今でもブルーシートを見ると身がちぢむのだ まして現地の人々の思いはいかばかりであろう

この災害を眼の前にして自分は何も出来ない無力感 どうしたらいいのだろう どのようにしたら この苦しみから抜け出ることができるか この困難をどうしたら乗り越えて行けるか 何と弱い人間であろう
何か頼れるものはないだろうか 支えてくれるものはないだろうか しかし生きなければならない
ならばその時 一体何にすがったらいいのだろう 何に助けてもらったらいいのだろう なんとしてでも どうしてでもと頭を下げる 頭が下がる「助け給え」と そして手を合わせる 「ああーー」
そして やっと気づく
そうだ そこにいるのが仏様なのだ そこには縁のあった人も縁の無かった人も皆んないるはずだ 見護ってくれている 生きて欲しい欲しいと願っている
願いの真ん中に自分がいるのに違いない まわりには明るく照らしている暖かい太陽がある 広い空には月があり星があり雲がある いのちを育てる土や水がある 今の私を生かしているものがある
どんな近くにいてもどんなに遠くにいても有り難い縁を思えば人の心は限りなくつながって行く 眼には見えないが空を飛んでつながり結びついているのだ 切ることはできない縁によって育てられている
そこに仏様がいらっしゃる 皆んながいてくれる

みんな仲間 友達 一杯の水 ひとすくいの土 一匹の虫 一枚の葉 それはここに生きている一つ一つの生きものとの共生き 考えてみれば世の中には一つとして離ればなれで独立しているものはない 一人では生きていけないのだから
折角 つながっている皆んなだから どこにいても一緒に生きて行きたい 仏様と一緒にいたい
どうか力を貸してください 良い智慧を与えて下さい 生きる力を与えて下さい
自分で出来るだけのことはいたします
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 合掌

今月の法話(6月)

2011 年 5 月 31 日

sugiura

 

  「法爾・・・あるがままに」

 

   杉浦靖俊(八王子組 大昌寺)
   

 
 
 3月11日の東日本大震災より早二ヶ月半、被災された方々の支援が遅々として進まない様子にいらだちを覚えます。また福島の原子力発電所の事故も政府や東京電力の発表とは違い、当初から一部で懸念されていた冷却水喪失によるメルトダウンであったことが判ってきました。3月15日には水素爆発が起き多量の放射性物質が福島県はもとより南東北から関東平野一円に飛散し、これからも汚染は続いていくようです。

 そんな騒然とした翌日の16日、法然上人800年遠忌にちなみ、上人の遺徳をたたえ宮内庁より『法爾』という八つ目の大師号を頂戴しました。本来なれば一宗を上げてお祝いをすべき慶事が一転、津波による被害の大きさが判明するとともにその悲惨さに心を痛め、放射能被曝への不安も相まってお祝い気分はかき消され、遠忌法要も順延することになってしまいました。

 さて、今回贈られた大師号『法爾』とは「あるがまま」若しくは「運命がそのように定まっている事」を表す言葉で、法然上人のお名前の由来でもある「自然(じねん)法(ほう)爾(に)」にちなむものです。比叡山の権力争いから逃れ黒谷の地に出離遁世した叡空上人から法爾自然として門下に入らんとこの地に赴いた若き上人に「法然房」という号と最初の師の源光と叡空からの一字を合わせ「源空」というお名前を授かったと伝えられています。

 法爾も自然も共に「法のおのずからしからしむる事」「本来あるがままの自然のすがた」を表す言葉です。善人は善人ながら、悪人は悪人ながら、あるがままに念仏を称えることこそ阿弥陀仏の救済に預かる唯一の道であると説かれた法然上人にふさわしい諡(おくりな)と思います。

 一刻も早く被災地域の復興が緒につき、原発の事故処理の方策にも目処が付いて、改めて遠忌にあたり法然上人の遺徳を偲び、晴れて大師号奉戴を心からお祝いできますことを願っています。

 ところで、先日参議院の委員会に参考人として出席した、専門家として長年にわたり反原発を唱えてきた京都大学原子炉実験所助教の小出裕章先生が、持論を述べた締めくくりにマハトマ・ガンジーの言葉を用いて、東電、国政、そして自身を含め原子力に関連してきた科学者を鮮やかに批判していました。それはガンジーの墓石に刻まれたもので、鳩山前首相も現職当時インドを訪問した折この言葉に感動して国会演説の中で引用していた記憶がありますが、今回の事故を踏まえた小出先生のものは重みが違います。

『7つの社会的罪』
1. 理念なき政治
2. 労働なき富
3. 良心なき快楽
4. 人格なき学識
5. 道徳なき商業
6. 人間性なき科学
7. 献身なき崇拝(信仰)

 最後の『献身なき崇拝(信仰)』とは色々な受け止め方があると思いますが、自己犠牲・自己否定、若しくは自己超越なしに真の信仰や宗教はありえないということなのでしょう。

 お念仏の教えに引き当てれば、凡夫の自覚のもとにありのままの姿で彌陀の名を称え、大いなる力に身をゆだねる中に必ずや救いがあるという法然上人の教えを思い起こさせてくれました。

 ガンジーの言葉にはこんなものもありましたね。
 『善きことは、カタツムリの速度で動く』

 体内被曝に注意は必要ですが、お念仏の中に焦らず希望を持ち、免疫力を高め、日々自身の与えられた務めに淡々と励んで行きましょう。

今月の法話(5月)

2011 年 5 月 3 日

murayama

 

  「救いのため、歩みだした阿弥陀さん」

 

   村山好信(江東組 良信院)
   

 
 
 今年の一月に半年間の闘病生活の末、大腸がんで亡くなった六十三歳の男性のお話です。
 通夜供養の前に、「苦しんで顔が歪むほどであったので主人を楽にしてやって下さい」と涙ながらに奥様からお願いされたのです。あまりにも苦しい顔なので皆にお別れをして頂くにも辛いようでした。
 私と同じ歳であったので特に一心に念仏供養を申し上げたのですが、通夜の読経の最中に不思議なことがありました。その祭壇の弥陀三尊のお掛け軸の阿弥陀様の右足が出たり引っ込んだりしているのでビックリしたのです。私の眼がおかしくなったのではと驚きながらも読経を済ませました。
 寺に戻り家族にこの事を話したら、笑って、疲れていたでしょうと一蹴されてしまいました。

 次の日の葬儀に奥さんが「昨日は本当に有難うございました。主人の顔を見て下さい。昨日と違い穏やかに良い顔をしています。昨晩は誰にも見せることができなかったが、穏やかな顔を親族の方々に見て頂きました。」と申されておりました。
 私も昨晩の阿弥陀さんの右足の話を致しました。参列者は「念仏の功徳と成仏するということ、救われるということを目の前で体験し実感させて頂きました」と感激しておりました。

 葬儀の最後に法然上人が詠まれた

  月影の いたらぬ里は なけれども 
  ながむる人の 心にぞすむ
 

 を皆さんと共に称えさせて頂き、南無阿弥陀仏と称えれば平等に救われる教えを味遇わせて頂きました。

 特に最近「葬儀はいりません。戒名はいりません。お墓はいりません。」と言うと何か現代的で進んだ考え方であるかのように思っている方が多いですね。お念仏によって救われるこの有りがたさに触れることのできない人達を私はかわいそうな人と思うようになりました。
 
 最近、有名になった九十八歳の詩人、柴田トヨさんの詩集『くじけないで』(飛鳥新社刊)に合うことができました。
 
  陽射しやそよ風は えこひいきしない
  夢は 平等に見られるのよ

 お念仏を称える人々を阿弥陀様の平等施一切の心に触れさせて頂き、気持ちよさと有りがたさを感じさせてくれたような気がしました。

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