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今月の法話≪東京教区所属の僧侶による法話を連載いたします≫

今月の法話(4月)

2011 年 3 月 31 日

    「大震災お見舞い・復興祈念」

 

            遠田弘賢(豊島組 慈眼院
 

 3月11日午後2時46分に何の前触れもなく東北地方太平洋沖でマグニチュード9の巨大地震が発生。

地震と共に青森県から千葉県の太平洋沿岸に大津波が襲い先月末現在で犠牲になられた方、行方不明の方々は27000人を越えた。

 一家全員が流され警察や自治体に届け出のない方々を含めるとその数は計り知れないと報じられている。

 東京都内でもかなりの揺れを感じ鉄道や地下鉄も全線でストップ。

夕方からは街道筋には以前から予想されていた「帰宅難民」(会社や出先から自宅に帰れなくなった方々)があふれた。

 総本山知恩院伊藤唯眞御門跡はお見舞いのお言葉と共に長年に亘り元祖法然上人八百年大遠忌法要に向けて準備を進めてきたがこの未曾有の災害を鑑みると、今は被災された方々の復旧支援を最優先する事が、衆生救済を生涯にわたって説かれた法然上人の御心に適うとのお言葉を述べられた。

 浄土宗の総・大本山ではそのお言葉に従い一部中止や延期を決定。

大本山増上寺でも法然上人八百年御忌大会は一年延期の事となった。

東京教区でも長年に亘り平成二十三年の御正当にむけて準備を進めてきた。

 その一つがお別時等により八百萬遍を目標にお念仏をお唱えする法要事業であった。

 本年1月25日、御正当の日には増上寺大殿で法然上人八百年大遠忌八百萬遍念仏会が盛大に厳修された。

 そして増上寺での八百年御忌法要の初日である4月1日に教区あげての八百年御遠忌壇信徒大会別時大法要が予定されていた。

この法要も来年に延期された。

 皆様方の中にもご親戚やご縁のある方が被災されたり未だ避難所で大変な環境の中で過ごされている方もいらっしゃるのでは?

 寺院ではお彼岸やお施餓鬼法要の中で過去の戦争や地震・台風等災害で有縁・無縁を問わずお亡くなりになった方々への御回向をする。

 御法事(年回法要)の時にもその大事な部分(正宗分)の最後に年回法要を迎えたご先祖様の御回向に続き「願以此功徳 平等施一切 同發菩提心 往生安楽国」(願わくは此の功徳をもって、平等一切に施し、同じく菩提心をおこして、安楽国に往生せん)「総回向偈」と呼ばれる偈文を申し上げ有縁・無縁を問わず全ての霊位に対して御回向をする。

 皆様方もご自宅で朝夕のお仏壇へのお詣りの時はご先祖様だけではなくこのようなお気持ちで今時の大震災で犠牲になられた方々へのお念仏をお唱え頂きたい。

都内は激甚な被害はなかった。救援活動等も始まっているが犠牲になられた方々のご冥福を念じると共に一刻も早い復興を願っている。合掌

今月の法話(3月)

2011 年 3 月 1 日

tamaru

 

  「報恩感謝~さまざまな出会い~」

 

   田丸英春(北部組 正安寺)
   

 
 ある霊園にお彼岸のご回向にうかがった時の話です。その霊園は大通りから入口まで一本道しかなく、大渋滞を起こしていました。私も巻き込まれてしまい、約束の時間には確実に遅刻をしそうでした。その一本道は片側が川、片側が住宅地になっていました。川に飛び込むわけにはいきませんので、イチかバチか住宅地に入っていったところ、これがみごとに袋小路にはまってしまいました。車外に出て、あたりを見回し、どうしようかと途方にくれていたら、その住宅地の住民の方が出てきて、「どうしたの」と聞かれました。私が事情を説明したところ、「それなら、ここへ車を停めていきなよ」と駐車スペースを提供してくださったのです。私は涙が出るほど有り難かったです。
 そのとき私が思ったのは、世の中支え合っているのだな、人間一人ではどうしようもないのだなと感じました。「困ったときはお互い様」と言いますが、「お互い様」というのは存在するのだなとも思いました。
 私たちは毎日なんとなく一日を過ごしているようですが、「お互い様」「おかげ様」に支えられています。それに気づくのは、なかなか難しいのです。
 私たちは今生きているのが「あたりまえ」のような気がしますが、ある日あるとき急に生まれてきたわけではありません。先祖代々連綿と受け継がれてきた命のリレーによってこの世に生まれてくることができました。そして、支え合って生かされております。
 さらに私たちは「縁」あって、この世でお念仏に出会うことができました。これは「たまたま」ではなく、「縁」によってなのです。
 阿弥陀様は、お釈迦様がお経の中で説かれた仏様です。この世には修行ができる人も、できない人もいる。すべての人が平等に救われるためには、阿弥陀様のお力にすがるしかないということを示して下さっています。私たちは、お釈迦様のそのお示しにより、阿弥陀様の本願に出会うことができました。「念仏を称えるすべての者を迎え摂り、極楽浄土へ往生させよう」と阿弥陀様みずから誓っておられます。
 この世で支え合っている「お互い様」「おかげ様」に感謝、お念仏に出会えた「ご縁」に感謝しつつ、お念仏を称え続けましょう。

今月の法話(2月)

2011 年 1 月 31 日

oono

 

  「真面目に生きる」

 

  大野逸雄(浅草組 天嶽院)
   

 
 最近、学生の頃に読んだ本をまた読んでみようと思ってその本を読み返してみました。夏目漱石の『こころ』という本です。きっかけは東京大学大学院教授の姜尚中(カンサンジュン)先生の『悩む力』という本に、『こころ』の文中の“真面目に生きる”ということを抜粋して書いてあったからです。姜先生は一九五〇年生まれですので丁度還暦を迎える歳だと思います。
 私も九州出身で先生も熊本出身の在日ということをはっきり言っておられるので、あの当時の在日の人達は田舎で随分いじめられたのではないかと想像することが出来ます。親からは在日の子として真面目に一生懸命生きろと強く教えを受けてきたと思います。
 その『こころ』は一人の大学生が夏の鎌倉の海で「先生」と呼ぶ人と出会う所から始まります。そして「先生と私」の項のところに、人間嫌いの先生に「真面目に人生から教訓を受けたい」と先生を問い詰める下りがあります。
 「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果で、人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人で好いから、他(ひと)を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか。」「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」…という文章なのですが、私たちはこの真面目という言葉を現代ではややもすれば、妙に堅物的な人間、柔軟性のない人に当て嵌めて使ってしまいがちです。姜先生はこの短い文章を見逃さずに真面目ということをずっと通して来られたと推測することが出来ます。物事の一つ一つを真面目に取り組み、真面目に行動するという事が如何に難しいかを改めて感じてしまいます。
 朝起きてからの仕事、趣味、遊びなど一つ一つの行動を真面目に真剣に取り組んでいるかと自問自答していくと真面目に生きるという事が本当に大変な事だということが分かります。往々にしてやっつけ仕事の様に簡単に済ませてしまっている自分を見る事が出来るのではないでしょうか。
 私達が常に称えるお念仏にしても一声一声本当に極楽に往生させて下さいという気持ちを込めて真面目にお念仏をする。
 法然上人も「但し三心四修と申すことの候は皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候なり」と真面目に極楽往生の気持ちを込めてお念仏する事の大切さをお示し下さっています。今からでも遅くはありません。日々の一つ一つの行動が真面目に出来ているか反省をしながら送りたいものです。合掌

今月の法話(1月)

2011 年 1 月 1 日

hiraoka

 

  「お念仏に支えられて 
      ーお念仏の声は家庭からー」

 

   平岡仁成(豊島組 徳性寺)
   

 亡き人の供養をすることによって、予期せぬ功徳を受けることがございます。私の寺のお檀家のことで、恐縮ですが、そのことを書かせていただきます。今年の夏の猛暑の最中、七月に亡くなられた奥さんの百ヶ日のときのことです。おばあさんが墓参にこられ、「仏壇を買ってよかった。家の中が明るくなった」というのです。
 五七日忌の時、新しく仏壇を買ったので、開眼供養をお願いしたいとの依頼を受けました。読経開眼のあと、私は亡くなられたお母さんの御供養を御主人だけにお任せしてはいけません。みんなで御供養するようにと、お話しいたしました。
 その家は、残された御主人とおばあさん、それから社会に出た娘さんと高校生の息子さんの四人暮らしです。私はおばあさんの話が意外だったものですから、そのいきさつを尋ねました。
 和尚さんがいわれたように朝きまった時間に全員でおまいりをするようにいたしました。娘が仏壇にあげるお膳をつくり、息子が水を取り替え、お茶をあげる。お父さんはローソクに火をつけ、お線香をあげる。おばあさんはお念仏を唱えおまいりをする。それぞれ違う仕事ではありますが、すべて亡くなったお母さんの御供養になるという思いから、みんな真剣、おばあさんは、みんなを激励しながらの毎日でした。みんなが、仏さまへのお給仕を自分の仕事にすることによって、お互いに励まし、励まされるようになったのです。
 ですから、誰かが寝坊して、その所が滞ると、まだお膳があがってないよ、お茶があがってないよ、といわれます。馴れてくると、だんだん皆んなが自分の仕事を、他人にいわれなくとも、自分の責任と思ってこなすようになってまいりました。別の言葉でいえば、供養をみんなでするんだという役割分担がはっきりしてきたのです。そうしますと、みんなが同じ時間に起きるようになったし、おまいりは勿論、食事までが、一緒にするようになりました。そこに家族としての会話が生まれてきたのです。お父さんは会社の話、息子さんも学校の話、そこから秋の学園祭の話がでて、今度はお父さんが見にいくよと約束したり、おばあさんのお習字の展示会の話も出て皆んなでいってみようかということにもなったのです。
 いままでは、ただ食べるだけという食事で、食事の時間もバラバラでした、それこそ自分たちの都合のいい時間に、好きなものを好きなだけ食べるという、いまいわれている孤食の摂り方でした。ですから、顔を会わし、話す時間もありませんでした。そこに仏壇を買い、お母さんの供養をすることによって大きな変化が起こったのです。
 会話の乏しかった家族の生活が明るく、変わってきたことは確かでした。いまは食事の時間のむだもなく、味噌汁なども温めなおすこともなく、冷めないうちに食べられるようになりました。これは単に仏壇が新しくなったという話ではありません。そこには、仏壇を中心にした生活をすることによって、仏にお守りをいただくのだという、おばあちゃんの話を喜びのうちに聞くことができました。予期しない家庭の団欒が戻ってきたのです。
 仏壇の縁によって、お念仏の力がみんなの心を一つにし、亡くなったお母さんのお守りをいただいた一家の話として、書かせていただきました。
 法然上人八百年の大遠忌を迎える心の準備はできたでしょうか。浄土宗二十一世紀の劈頭宣言の中に、家庭にみ仏の光を(あたたかい家庭を築こう)という目標が、こんな形で、身近な所から、力を発揮されたことは、すばらしいことです。まさにお念仏の力だと思います。

今月の法話(12月)

2010 年 12 月 1 日

    「おだやかさと、強さ」

 

            小林正道(芝組 妙定院
 

 法然さまは、やさしく穏やかな方との印象がありますが、強さと積極性をも持たれていた方とも言えます。その点を、そのご生涯から見ていきましょう。
 旧仏教からの度重なる強訴により、建永二年(1207)、上人七十五歳の時、院宣によって、念仏停止・土佐への配流が決まりました。この時、弟子の一人に念仏についてお述べになったのに対して、別の弟子が、このような時期に世間の機嫌をそこねるようなことは避けた方がよいのでは、と申し上げたのです。
 それに対し法然さまは、

  我、首を切らるとも、この事言わずはあるべからず。

とおっしゃいました。本当にお考えの様子がお顔にあらわれて大変迫るものがあったので、お弟子たちはみなこらえきれず涙を流したとのことです。この言葉は、筆者の自坊・妙定院所蔵の『法然上人伝絵詞』(琳阿本)(浄土宗宝・東京都港区指定文化財)にある言葉です。
 すごい言葉ですね。念仏弾圧の嵐が吹き荒れているとき、普通ならばその風が少しおさまるまでは、少し静かにしようと考えるものですが、そうではないのです。法然さまの強さ、そして念仏の教えに対する深いおもいが見てとれます。
 この言葉だけではありません。お弟子(信空)が、「ご老体にははるか遠く海を渡る旅はお命の点でも心配です。私たちは教えが聞けなくなります。一向専修の念仏を広め行うことを中止する旨お上に申し上げて、こっそりと目立たないように導かれたらいかがでしょう」と言ったところ、法然さまは、「八十歳近くになってたとえ京都にいてもお別れは遠くない。都には長らくいたから、都から離れ、辺鄙なところで人々に念仏を伝えることは長い間望んでいたことです。人の力で止めようとしても、仏法は決して止まるものではありません」とおっしゃったとのことです。(『法然上人行状絵図』巻三十三)

年をとられても、ものすごい迫力だと思います。信念の強さによるものなのでしょう。 一方、次のような面もあります。

  学問ははじめて見たつるは、きわめて大事なり。師の説を伝え習うはやすきなり。(『法然上人行状絵図』巻五)

 「先生の説を伝えられて学ぶことはたやすいことだ」とおっしゃっているように、学問については厳しい面を見せています。そして上人は、このようなことを、修学中にも当時の師匠に向かって言った、と伝えられています。
 ただ、やさしくて何でもよいとする軟弱な人ではなかったということが分かります。
 さらにもう一つだけ加えましょう。

  自他宗の学者、宗宗所立の義を各別に心得ずして、自宗の義に違するをは、皆ひが事と心得たるは、いわれなきことなり。      (『法然上人行状絵図』巻五)

 それぞれの考えを理解しないで、自分の考えにそむくからと言ってまちがいだと考えるのは、理由のないことだ、というのです。それぞれの違いを認めた上で、自らの説を主張し、かつ他の考えを尊重せよ、と言われているのがよく分かります。
 こうして見ていきますと、法然さまは、強さと幅の広さを兼ね備えていた方と言うことができます。それが、肖像画に描かれているあのお顔となってあらわれているのでしょう。 私たちもこの双方を少しでも相持ちたいものです。

今月の法話(11月)

2010 年 11 月 1 日

kaneko

 

  「決定往生のおもいをなすべし」

 

   金子一俊(城北組 仮宿院)
 

  

 先月、世界中に報道された「チリ鉱山落盤事故」の救出作業。70日間も地下に閉じ込められた33人の作業員がフェニックス(不死鳥)と名付けられた救助カプセルにて一人ずつ救い上げられ、家族と感動の再会を果たしたシーンは、世界中の感動を呼びました。皆さんもまだ記憶に新しいと思います。
 全員が救出されてからは、インタビュー責めや映画化などと騒がれておりますが、徐々に漏れ聞く話によりますと、救出されるまでの地下生活で、生存者が確認されるまでの17日間は、助かるかどうかも分からない中で、唯々死を覚悟するしか出来ない壮絶な精神状態に追い込まれ、僅かに残った缶詰や賞味期限の切れた牛乳の分配方法について揉め事が起こり、時には殴り合いになることもあったそうです。
 今回の救出シーンをみて、私はふと芥川龍之介によって書かれた短編小説である『蜘蛛の糸』(くものいと)を思い出しました。不適切な表現かもしれませんが、救出されていく作業員の方々が、ワイヤー1本で救い上げられていく有様は、まるで主人公のカンダタ(犍陀多)という生前に様々な悪事を働いた泥棒でありながらも、一度だけ善行を成した事から地獄から救ってやろうと蜘蛛を使い、1本の糸を地獄に垂らして下さったお釈迦様の心を見ているように感じられたのです。

 中国・唐時代の善導大師は『観経疏』に、このようにおっしゃります。
「我らが如き、未だ煩悩をも断ぜず、罪をつくれる凡夫なりとも、深く弥陀の本願を信じて念仏すれば、一声にいたるまで決定して往生す」
 我々(私)人間は煩悩にまみれて罪を犯し、その煩悩を断ち切る事ができず、生死の迷いの世界をさ迷い続ける凡夫ではあるけれど、深く深く阿弥陀さまの本願を信じて念仏を申させて頂ければ、一遍のお念仏までも必ず往生が願うのですと。中国浄土教の大成者である善導大師をしても、自身を迷いの世界から離れようにも、その縁すらない身(凡夫)であると仰せになり、そんな自分が救われるには阿弥陀さまのお誓いにすがり、御名を称えさせて頂くしかない。
 しかし、それにはまず我が身の程を省みることが大切なのです。
  (先号の宮入上人の法話を参照下さい。)
 
 「蜘蛛の糸」のカンダタは自分だけが救われれば他はどうなっても良いと自分だけ地獄から抜け出そうとする無慈悲な心を持った為、糸が切れて地獄に逆戻りした訳ですが、チリ鉱山落盤事故での閉じ込められた作業員達も初めに喧嘩が起きてしまったのは、やはり「自分だけは助かりたい」という欲望が故ではないのでしょうか? 
 (※生存確認後、作業員に安堵感が生まれ、友情と団結力が強まり、お互いに励まし合い、相手を思いやる助け合いの精神が奇跡の救出につながったのだそうです。)
 又いざ自分がその立場に置かれたらどうでしょうか? 誰しも自分だけはと考え、人を蹴落としてでも・・・と簡単に罪を造ってしまう・・・そんな罪多き我が身なのではないでしょうか?決して他人事ではなく、地獄行きが決定されている我が身なのです。

 そんな我が身をしっかりと知り、こんな自分でも救われる方法を用意して下さったのが阿弥陀さまなのです。宗祖法然上人も消息の中に
「煩悩の薄く濃きをも省みず、罪障の軽き重きをも沙汰せず、只、口にて南無阿弥陀仏と称えば、声につきて決定往生のおもいをなすべし」と仰せになり、煩悩や罪の程度にかかわらず、とにもかくにも「南無阿弥陀仏」と申し申させて頂くそのひと声、ひと声に必ず極楽往生が叶うのだと。
 「我が名を称えよ、必ず救う」とお誓い下さり、いつでも私達の声に耳を傾けておられる阿弥陀さまに、臨終の時には間違いなく極楽浄土にお救い頂ける様に日々のお念仏をお称えしてまいりましょう。
 南無阿弥陀仏

   ~阿弥陀仏と 称えし声に 糸は切れまじ
                  決定往生 まさに我が為~

今月の法話(10月)

2010 年 10 月 1 日

miyairi

 

  「我が身の程を信じて」

 

   宮入良光(城南組 栄閑院) 
 

  

 先月大団円を迎えたNHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」。すっかりお茶の間のお馴染みとなった水木しげるさんは、幼い頃に近所のお寺で見た地獄極楽図によって、強く「あの世」に興味を持たれたそうです。目に見えない妖怪達、そして生とは、死とは何かを追いかける背景には、「あの世」の確信があったわけです。

 皆さんはいかがお考えでしょうか。「あの世なんて無いんだ」、「死んだら何となく良いところに生まれるんでしょ」、それとも「死んだら皆ホトケ」でしょうか。はっきりと自身の行く末を見据えておられる方は、思いのほか少ないものです。
 仏様のお示しでは、間違いなく生と死は隣り合わせです。「生死」と書いて「しょうじ」と読みますが、つまり、この世に生まれたということは、前の世で命を終えたということ。この世で命を終えるということは、どこか次の世に生まれるということです。そしてこの「生死」の繰り返しから抜け出せないから恐ろしいのです。

 中国唐時代の善導大師という方はおっしゃいました。
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」

 この私という人間は、悪業を重ねて罪深く、無数の生死を繰り返してきた愚か者である。一度としてこの迷い苦しみの世界を抜け出る縁に出会うことは無かったと。当時、「阿弥陀如来の化身」とまで尊ばれた善導大師が、ご自身をこのようにおっしゃったのです。いかにいわんや我らをや。私たちは、自分だけは生き残りたいという欲望に振り回され、罪を造らざるを得ない存在です。認めたくはないでしょうが、被害者を放置し自己保身に走った押尾被告の事件は、誰もが持つ人間の欲望をまざまざと見せつけました。この姿を、我が身に置き換えて考えなければなりません。きれいごと抜きにはっきり申し上げれば、我たちは死ねば地獄に堕ちてゆく身だということです。
 
 この「我が身の程」を深く受け止めねば、お念仏を有り難く頂戴し、しっかりお称えすることはできないのです。善導大師のお言葉を受けて、宗祖法然上人は次のようにおっしゃってます。
「始めに我が身の程を信じ、後には仏の願を信ずるなり。ただ後の信心を決定せしめんがために始めの信心をば挙ぐるなり」
 阿弥陀様は私たち人間が地獄に堕ちていくのをどうしても見捨てては置けなかった。だからこそ極楽浄土を構えてくださり、「我が名を称えよ。念仏申せ。必ず救い摂るぞ」と手を差し伸べてくださるのです。
 まず「我が身の程」をしっかりと受け止め、「助けたまえ、阿弥陀仏よ。南無阿弥陀仏・・・」と日々お念仏申す。そして命終わった時には間違いなく極楽浄土へ迎えとっていただく。このような方を、阿弥陀様、お釈迦様、善導大師、法然上人は心から喜んでくださり、真の仏弟子と讃えてくださるのです。
 どうか共にお念仏をお称えしてまいりましょう。南無阿弥陀仏

今月の法話(9月)

2010 年 9 月 1 日

yoshida

 

  「お彼岸・実在のお浄土」

 

   山田紹隆(江東組 正源寺) 
 

  

 「これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界あり。名づけて極楽という。その土に仏まします阿弥陀と号したてまつる」
 阿弥陀経という御経の中で、お釈迦様が一番始めにお示し下さったお言葉です。
 「今、私達がいるこの場所より、遥か西の彼方、十万億という多くの仏様の世界を過ぎた所に、また一つの世界がある。その世界を極楽と称し、その極楽世界に仏様がましまして、自らを阿弥陀と名乗っておられる。」
 お釈迦様は阿弥陀経の中で、極楽浄土の場所を明確にお示し下さっておられます。

 私達は遠い昔より、迷い苦しみ多き六道輪廻の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を生死を繰り返しながらグルグル巡り続け、今の世で人として生を受けております。この六道輪廻は因果応報の世界。良い行いをすれば良い結果が生じ、悪い行いをすれば悪い結果が生じる。自分自身の行いで次に生れる世界が決まって行くのです。

 煩悩のままに日暮を送り、方向が定まらず六道世界で生死を繰り返している私達。この生死を繰り返す迷いの世界を「此岸(しがん)」と申します。この迷い苦しみの「此岸」から、私達を救う為に仏様と成って下さったお方が阿弥陀仏です。極楽浄土というこの上ない清らかな国土、迷い苦しみ無き世界を六道世界の外に構えて下さり、「南無阿弥陀仏」と我が名前を称える者必ず極楽浄土へ救い取るとお約束下さっておられます。

 六道輪廻の世界であります「此岸」を厭い、極楽浄土へ往生したいと願って「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えれば、私達がこの世で命終えるその時に、阿弥陀仏御自らお迎えに来て下さり、西方極楽浄土へと往生させて頂けるのです。この極楽浄土を、迷い苦しみの世界であります「此岸」に対して、清らかな悟りの世界「彼岸」と呼ぶのです。

 お彼岸のお中日は、昼夜の長さがほぼ等しくなる日。太陽が真東から昇り真西に沈みゆく、その夕日の沈む遥か彼方に実在する極楽浄土。先立たれた方々が阿弥陀仏のお導きを頂き仏様と成ってゆかれる世界であります。
 阿弥陀仏は今この瞬間にも、極楽浄土から私達に、「我が名を称えよ、必ず救う」と呼びかけ続けて下さっておられます。阿弥陀仏は私達に、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称える事を願っておられるのです。それはそのまま、極楽浄土にいらっしゃる先立たれた方々の願いでもあります。私達が極楽浄土へ往生させて頂いたのならば、同じ蓮台で先立たれた方々とお出会いさせて頂ける世界でございます。この世限りでは無く、後の世までもご縁を結ばせて頂けるのでございます。

 お彼岸は亡き方に想いを馳せると同時に、夕日の沈む西の彼方に在る極楽浄土を慕い、極楽浄土へ往生したいとの気持ちを新たにする期間でございます。
 皆様方のお念仏のお声、お姿、阿弥陀仏はもちろんの事、亡き方もお喜びになりながら聞いて下さり見て下さる事でしょう。お彼岸を迎え、決意を新たにして、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申し申しの毎日を、共々に過ごさせて頂きたいと思います。    合掌

今月の法話(8月)

2010 年 8 月 1 日

yoshida

 

  「努力精進の人・法然上人」

 

   吉田一心(島嶼部 行行寺) 

 
 「智慧第一の法然房」

 800年前の法然さまの時代から今も、「法然さま」というと、「智慧第一」と、返ってきます。

 24歳の青年僧法然さまは、師僧の許可をいただき比叡の山を下り、嵯峨・清凉寺から奈良の各お寺をお歩きになりました。その目的は、すべての人が救われる教えを求めての旅でした。
 しかし、求める教えは得られず、重い足取りで再び山にお帰りになりました。
 師僧に帰山の挨拶をし、すぐにそのまま報恩蔵(経蔵)へ入り、お経の勉強にとりかかりました。

 以来、十八年。
 
 この間、上人の伝記は、真っ白です。なにも書かれていません。ただひたすらの学文、すなわちお経を拝読し、今まで行じてきた念仏を始め諸々の行を積む、そのような十八年間であられたのでしょう。
 智慧第一と尊称された法然さまの必死の勉学と修行が続きます。

  ・・・この書物にヒントがありそうだ。

 本棚から机の上に取り置き、読まれたのが唐の時代の善導大師の著作『観経の疏』です。

「とりわき見ること三遍、前後合わせて八遍なり」

 法然上人は『観経の疏』を読むこと八回。その八回目で、ついに見出されたのです。すべての人が救われる教えを。

 ただひたすら心から阿弥陀さまの名号を称え続けることを正定の業となづけます。なぜなら、それは阿弥陀さまの第十八念仏往生の願にかなった行であるからです。

 法然さまは、このご文に目と心がとどまり、善導大師の教えの真意を知ることができました。

 「そうだ、私のような無智の者はこのご文に従い、この教えを頼み、わが名を称えるものは一人も捨てないぞ、との阿弥陀仏の本願の力を頼み、称名念仏を称えて往生を願おう。それがいいのだ」

 こう悟られた法然さまは、

「だれも聞く人はいないのに声に出して念仏を称え、その法悦は骨の髄まで染みわたり、流れる涙は止まりませんでした。時は、承安五年(1175)の春、43歳になっていた私は、たちどころに他の行を投げ捨て、ただひたすら、念仏を称える教えに帰依しました。以来、一日に六万遍の念仏行を行ずるようになりました」

と、晩年述懐されています。

 この念仏による浄土往生のみ教えが、850年後の今日まで脈々と続いてきているのです。
 来年は、法然上人ご遷化800回の遠忌を迎えます。私たち僧侶は、次の100年を目指して、上人の教えの布教を続けなければいけません。檀信徒の皆さまは、子々孫々まで、財産とともに念仏も相続できますようにお勤め願います。そのためには、念仏を続ける後姿が必要ではないでしょうか。

 法然上人のご努力に感謝を捧げ・・・同称十念

今月の法話(7月)

2010 年 7 月 2 日

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 「お盆を迎えて」

 藤井正史(玉川組 月影寺) 

 

 今年もお盆がやってまいります。
 お盆は、遠いご先祖さまから多くの思い出を共有して逝った家族まで、一年に一度ご自宅にお迎えする大切な時間です。また、離れて暮らしている子供たちが生家の親元に集まり、ご先祖さまや亡くなった家族に元気な姿を見せ、感謝の気持ちと共に過ごす期間でもあります。
 お盆は旧暦の7月に行われていましたが、明治5年より現在の新暦となってからは、 全国的に八月の月遅れのお盆が行われる地域が多くなりました。偶然ですが、ちょうどこの時期は、昭和二十年八月六日広島、九日長崎の原爆記念日、十五日の終戦記念日と時期が重なっており、毎年8月が慰霊の季節となっていることも、お盆が私たちの季節感に根を張ってる理由の一つかと思います。

 私は東京で住職をしておりますので七月のお盆をお勤めしていますが、当寺の檀信徒のなかには、地方に勤めている家族が帰京できるのは八月のお盆休みだけだということで、八月のお参りをご希望される方もいらっしゃいます。私自身は長崎で親類を亡くしているので八月九日を迎えると、今年もこの日がやってきたのだなぁと、旧盆のお迎えに気持ちが向かいます。日本のお盆は、推古天皇十四(西暦六〇六)年より行われており、たいへん長い歴史があります。長い年月のなかで、多くの人が同じ思いを胸にこの暑い季節を過ごしてきたのでしょう。 
 近年は、お正月の門松を飾らないお家は増えてきましたが、梅雨時になると、近隣のスーパーでは必ず「お盆の精霊棚セット」が数種類並びます。中には麻菰やおがらが入っており、胡瓜の馬や茄子の牛までついているものさえあります。初めて見たときは驚きましたが、時代は変わっても、お盆を迎える人々の気持ちは変わらないのだと思います。お盆を詠んだ句に、このようなものがあります。

青菰の上に並ぶや盆仏

 幼い頃から家族を亡くした悲しみとともに生きた小林一茶(一七六三~一八二八)の句です。一茶は信濃国(長野県)の農家の生まれで、三歳で生母を亡くし、貧しい生活のなかで育ちますが、継母との対立から十五歳で江戸へ奉公に出て俳諧の道を志しました。五十代になってようやく、二十代の妻・きくと世帯を持ちます。次々と三男一女の子宝に恵まれるものの、四人ともみな幼くしてこの世を去ってしまいます。一茶が子供の頃から夢見たであろう、新たに始めた幸せな家庭は、すべての子供を失った後、あろうことか妻にまでも三十七歳の若さで先立たれて終焉を迎えました。家族全員を失い、一人取り残された一茶の悲しみはいかばかりであったでしょう。やっと手に入れたかに思えた家庭のぬくもりは、一茶にとって儚い夢でしかありませんでした。その後も再婚した妻とは半年で離縁し、晩年に再々婚した妻との間に子が生まれたのは、なんと自らがこの世を去った翌年のことでした。

 私は小学生の頃、毎年、お盆の前に母の実家である長野市のお寺から、祖父の生家のあった新潟まで墓参りに出かけましたが、決まってその帰りに北国街道近くの一茶の旧宅に寄りました。旧宅は国史跡に指定されていますが、立派なお屋敷ではありません。
 一茶は幕末の文政十年閏六月、柏原宿の大火事に遭い、焼け残った土蔵に移り住んでいたのです。その年のお盆には、一茶はこの土蔵のなかで子を失い弔う逆縁の悲しみ、連れ合いを亡くした悲しみ、家族全員に先立たれた哀しみを心に抱いて精霊棚を設え、亡くした家族を迎えたのです。盂蘭盆にしつらえた精霊棚(盆棚)に並んだ多くの位牌を眺めこの句を残しました。自分の寿命の尽きる時を見据えて詠んだのでしょう。十一月になると、六十五歳で亡くなりました。
 
 当山では、昨年も、赤ちゃんから90歳を超えるおばあちゃんまでの新盆の御回向を、それぞれの思いで迎えられたご家族と共にお勤めいたしました。
 お釈迦さまの説かれた四苦八苦の一つ、「愛別離苦」という愛する者と別れねばならない苦しみは、誰しも避けることができません。そして、家族を失った後も日々の生活は続き、残された者は自身の寿命を全うするまで、その苦しみを背負って生きていかねばならないのです。今年の夏も一茶の句のように、精霊棚に位牌を並べ、亡くなったご家族を思ってお盆を過ごされる方が多くいらっしゃることと思います。 

 お盆は、懐かしい家族やご先祖さまをご家庭に迎え、授かった命・生かされている命に感謝し、いつかは迎えれらる側になる自分という存在を見つめ直す時間でもあります。貪りに囚われることなく、きちんと生活している姿をご先祖さまに見ていただける、まことに有り難い期間であるとお思いになって、お念仏をお称えください。南無阿弥陀仏

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